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大阪地方裁判所 昭和27年(行)9号 判決

原告 朝日硝子工業株式会社

被告 大阪府地方労働委員会

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は「被告が昭和二十七年三月八日附で、訴外西橋勇および平山幸吉と原告との間の昭和二十六年(不)第四五号不当労働行為救済申立事件について発した命令を取消す。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決をもとめ、その請求の原因としてつぎの通り述べた。

「原告は、昭和二十二年二月二十四日設立され、硝子製品の製造販売を目的とする資本金一五〇万円の株式会社であるが、昭和二十六年十一月八日、原告会社の従業員であつた訴外西橋勇を解雇し、同月九日、同じく訴外平山幸吉を解雇したところ、同人等は、同年十二月十九日被告委員会に対し、右の解雇が労働組合の役員である同人等を解雇することによつて、組合活動を禁圧し組合を弱体化そうとした不当労働行為であるとして救済を申立て、被告はこれにつき、労働組合法第二十七条にもとずき、昭和二十七年三月八日付の命令書をもつて、右の解雇を同法第七条に違反するものとして、原告に対し、一、西橋勇、平山幸吉を原職に復帰せしめ、かつ、解雇より復帰の日まで同人等が得べかりし賃金相当額を支払うこと、二、西橋、平山の所属組合に対し「会社は組合幹部を解雇して、組合の運営を阻害したことを陳謝するとともに今後一切組合に対して支配介入しないことを確約する」との文書を手交すること、三、前二項は本命令書交付の日より七日以内に履行すること、を命ずる命令を出した。

しかし、原告が右西橋および平山を解雇した理由は、つぎの通りである。

原告会社はそれまで、輸出向コツプ、化粧品用瓶、寿屋ウイスキー瓶を製造していたが、貿易および化粧品業界の不況によつて註文がなくなり、また、ウイスキー瓶の製造を機械化した有力な生産者があらわれたためその註文も半減し、従来の営業方針では経営ができなくなつた。一方、石炭の入手が困難となつた上に物価や人件費の値上りのため、急速に経費節減の計画をたてないと倒産する危険にせまられた。そこでまず、従来二基の炉をもつて操業していたがそのうち一基を廃して一応全従業員を一基に集中し、従前の全員公休制をあらため交替制によつて休日を与えることとし、昭和二十六年十月五日炉一基を廃し、同月六日は一せい休日とした。そして、工場長職長組長等協議の上、各職場に余剰の人員を配置し、交替制による各人一週一休日を実施し、休日の給与としては、職人は平均賃金の三〇パーセント、見習および雑役工は平均賃金の五〇パーセントを給することにし、右交替制は同月七日から実施した。ところが、電力事情のため昼間作業が不能となつたので、同月十四日から夜間作業に移つたが、この夜間作業中は、製瓶と調合の二作業は欠勤者が多いとの予想でその従業員のみは全員出勤とし、他は交替制としていた。そして、同月二十三日と三十一日を公休日として与えたが、同年十一月一日から昼間作業にもどつたので、全面的に前の通りの休日交替制に復帰した。

こうして、炉一基による操業に従来の人員を約一ケ月使用したが、人員の過剰で能率が悪く経費の節減もできないので、過剰人員を整理することになり、解雇基準を(一)勤務成績不良のもの、(二)勤務年数が各職場で少ないもの、(三)同僚との折合いのわるいもの、秩序をみだすもの、と定め、右のいずれか一つに当るものを解雇することとし、これによつて、前記西橋勇外九名の従業員に対し、同年十一月二日解雇の通知をした。しかし、これに対し関西化学産業労働組合連合会(関西化学労連)の斡旋があつて、原告と従業員組合(組合長西橋勇)との間で、(1)原告と組合は一一月七日再度交渉すること、(2)その交渉の際、原告は生産計画を示して組合と協議すること、(3)原告は人員整理を一応白紙にかえし、生産計画案討議の後協議すること、を協定した。

さて、同月六日の給料支払日に、原告は極力支払資金の調達をはかつたが約半額しか支払できないことになつたところ、西橋勇は原告に対し、交替休の休日の給料として平均賃金の八〇パーセントの支払を要求し、この要求がいれられないならば翌七日は休日として全員欠勤するというので、原告会社の労務課長亀井一は、社長も不在で即答できない、また石炭入手難の今、一日分の石炭も無駄にできないから、七日は休日にできないと答えた。(炉の火を消すと炉が破損して使用できなくなるので一刻も消すことができず、休日でも火を燃しており、当時石炭の入手が困難で、貯炭はせいぜい一日分しかない状態であつた)。そして、同日午後六時頃原告は給料半額の支払をしたが、その際原告会社の事務所に集つた全従業員に対し、前記亀井一から、給料遅払の釈明をするとともに、先刻西橋が七日には全員休むといつてきたがそれは困るから出勤してほしいと述べた。これに対し、訴外藤本、山田等大多数の従業員は出勤すると言明したが、西橋、平山等は、組合大会の決議で七日は休日ときまつたと強調し、組合員の間でも意見が対立した。

こうして、十一月七日の日、従業員の大多数は平常通り出勤したが、西橋、平山はほか少数の者とともに欠勤し、しかも従業員のある者に対し、日当は西橋が出すから休んでくれと欠勤の勧誘をした。

よつて原告はやむなく同月八日西橋ほか五名、同月九日平山ほか一名を解雇した。

西橋の解雇は、所属の組の中で勤務年数が浅いこと、同僚との折合いも悪いこと、秩序をみだしたこと、欠勤を勧誘したりして業務を妨害したこと、また、故意に職場を放棄したこと、を理由とするものであり、平山の解雇は、その職場で勤務年数が浅いこと、平常出勤日に故意に業務妨害の目的で職場を放棄したこと、を理由とするものである。

ところが、これに対し、被告委員会は前記命令において、(一)昭和二十六年十月二日労働組合成立の直前、原告会社の社長が西橋に対し『組合を作るなら全部を含めてやつたらよい』と述べ、また同日工場長が組合結成大会の会場で『お前等は組合を作つて会社をつぶすつもりか』と言明した、(二)同年十一月三日原告と組合との間に人員整理に関し前記の協定があつた、(三)同年十一月四日は休日の予定であつたのを、その前日原告から組合に、休日を七日に延期されたいと申入れて延期し、六日にはさらに、七日は出勤し今後休日は交替制とすることと申入れ、組合はこれに対し、申入は一応みとめるが交替休の休日も平均賃金の八〇パーセントを支払えと答え、原告がこれを拒否したので、同六日終業後、なお就業中の二十数名を除き、総組合員九十名のうち三分の二以上が集つて組合大会を開き、七日は公休日だから出勤しないことと今後週休制の実施とを決議し、これを掲示板に掲示するとともに原告会社に通告した、同日給料支払の際原告から翌七日の出勤を要求したのに対し西橋、平山等は組合大会の決議があることを主張したが、大会に出席しなかつた藤本、山田等は七日は出勤すべきであると主張し、組合員の間で意見の対立をみたが、結局七日は西橋、平山等三十余名が出勤しなかつた、との以上の事実を認定し、(一)の事実は原告の組合への支配介入であり、(三)の西橋、平山の行為は組合活動として当然の行為で、これらをとらえて同人等を解雇したのは、組合の弱体化を企図した不当労働行為であると断定しており、これによつて、前記の命令を出したものである。

しかし、被告の認定した事実のうち、前記(一)の事実はまつたくなく、(二)の事実のあつたことはみとめるが、(三)の事実はちがつている。十一月四日は休日予定日ではなく、原告がその延期を申出るはずがない。その前から休日は交替制になつていて一せいの公休日はなく、その予定もなかつたこと、前述の通りである。十一月七日を休日というのは、西橋等の一方的な申出にすぎず、原告が拒否したのは当然である。七日に出勤するか否か組合員間に意見の対立があり、原告としては会社の現況から七日を休日にできないと主張したのは当然であつて、組合員の間でも出勤の意見が多数を占めた。十一月六日の組合大会については、組合員でその開催を全然知らぬものが多数あり、そのような組合大会があるはずがない。

被告は西橋、平山の行為を正当な組合活動とするが、すでに述べた通り、同人等は自分一個の考えを組合の名によつて多数に押しつけようとするもので、労働組合の存在意義や組合活動の常識を知らず、原告会社が倒産の危険にあることを知りながら、ただ会社の業務を妨害することに専念し、給料の支払も遅れがちなときに、休日賃金の不当な値上を要求し、要求がきかれなければ全員休むと強硬な主張をし、多数組合員の反対によつてもなお、日当を出すから欠勤せよと勧誘して廻つて従業員の勤労意慾を阻害し、業務の遂行を阻害したのである。そして、前記のように、十一月七日原告と団体交渉を行うという協定をしたのも無視し、団体交渉も行わなかつたのである。西橋、平山のこのような行為は、その目的とするところは原告会社の企業の破壊であつて、労働者の経済生活の向上をめざすものではない。これを正当な組合活動とみとめる被告の断定はとうてい首肯することができない。

なお、西橋は、昭和二十五年十月六日および昭和二十六年十月二十一日にも、『気がすすまぬ』と職場を放棄し、平山は昭和二十六年十月二十七日加工員大谷の顏面を殴打し、また常に遅刻していた。

被告訴訟代理人は、主文同旨の判決をもとめ、答弁としてつぎの通り述べた。

「原告が硝子製品の製造販売を目的とする株式会社であり、昭和二十六年十一月八日その従業員であつた訴外西橋勇を、同月九日同じく訴外平山幸吉を解雇し、同訴外人等が同年十二月十九日被告委員会に労働組合法第二七条の救済命令をもとめる申立をし被告が昭和二十七年三月八日付命令書で原告主張の通りの救済命令を出したこと(命令を原告に伝えたのは同月十日)はみとめる。また原告会社が従来二基の炉で操業していたこと、その一基を廃し、全従業員を一基の炉に集中させたこと、電力事情のため昭和二十六年十月十四日から夜間作業にうつつたが、同年十一月一日から昼間作業に復したこと、同年十一月二日前記西橋、平山に解雇の通告をし、同月三日関西化学労連の斡旋で、朝日硝子労働組合と原告主張の通りの協定をしたこと、同月六日に当日支払うべき給料が半額しか支払できないことを組合に申出で、これに対し組合長西橋勇が原告の申出は承認するが、そのかわり今後の休日に対しては平均賃金の八〇パーセントを支払うべきことを申出たこと、同日夕刻組合大会の後、原告の労務課長が原告会社の事務所で全従業員に対し、給料遅払の理由をのべ、かつ、翌七日には出勤するよう要請したこと、翌七日に西橋、平山等三十数名が出勤しなかつたことはみとめる。

右西橋、平山に対する解雇の原因は、右の二人が昭和二十六年十一月七日職場を放棄したことにあり、右の職場放棄は、休日制、休日手当および給料支払という労働条件に関する労働組合の主張貫徹を目的として、組合の決議に基いてなした典型的な争議行為であり、この決議をした組合大会に、たとえ少数の組合員労働者が業務の都合で参加できなかつたとしても、西橋、平山の参加した争議行為が正当な組合活動である点には何等の消長がない。上記の解雇は要するに、西橋および平山の右の正当な組合活動を理由とするものであり、さらにその裏付けとなる原告の組合に対する介入的態度についても、命令書に示した各認定事実、また右の解雇によつて組合が事実上消滅している事実、本訴における原告の主張自体からもうかがわれる原告の組合活動に対する認識および態度などから容易にみとめることができる。従つて被告委員会の出した救済命令は適法で、原告の本訴請求は失当である。」

(証拠省略)

理由

一、原告会社(会社)が、硝子製品の製造販売を目的とする株式会社で、その従業員をもつて組織する朝日硝子労働組合(組合)の組合長である訴外西橋勇と執行委員である訴外平山幸吉の二人の従業員に対し、前者には昭和二十六年十一月八日、後者には同月九日、それぞれ解雇の意思表示をしたところ、その二人は、同年十二月十九日被告大阪府労働委員会(被告委員会)に対し、右の解雇が組合を弱体化そうとする意図のもとに、二人が組合の幹部であり、組合の正当な行為を行つたことをとらえこれを理由とした不当労働行為であるとして、二人の原職復帰と賃金支払および原告会社の組合に対する支配介入の禁止をもとめる趣旨の救済の申立をし、被告委員会がこれにつき、労働組合法第二十七条にもとずき、昭和二十七年三月八日付の命令書をもつて、原告主張通りの事実を認定し、右の解雇を労働組合法第七条に違反するものとし、原告に対し、原告主張通りの命令をしたことは、右西橋、平山の救済申立の内容が、成立に争のない乙第一号証の二(申立書)によつて明らかなほか、その他は当事者間に争がない。そして、原告会社が右の二人につづいて、昭和二十六年十一月三十日、組合の書記長堀江正一、会計部長井上文明、組合員で平山幸吉の弟平山寅男をも解雇し、被告委員会が上記命令において、これら解雇の事実をも認定して判断の資料に加えていることは、成立に争のない乙第一号証の七(命令書)、乙第二号証の二および五の各四(被告委員会の審問速記録)によつて明らかである。

原告は、右の解雇が、西橋、平山等の組合における地位ないし正当な組合活動を理由としたものではないと主張し、被告委員会の上記命令をその点で違法とし、その取消をもとめる。そこで、右解雇の理由を、これに関連した諸事情を明らかにしつつ検討しよう。

二、原告会社は、明治二十七年に創立され、大阪硝子製造業界で最古の歴史を有する企業であり、戦災の後昭和二十二年二月、資本金一五〇万円の株式会社として再建され、貿易用コツプ、化粧品用瓶、寿屋のウイスキー瓶を主として製造し、従業員は昭和二十六年十月初において一八一名を数えた。

ところが、註文の減少に売掛金の回収難などが重なり、昭和二十六年九月頃になると、一、五〇〇万円を超える債務の支払にも窮し、経営は悪化の一途をたどり、ついにその生産規模を縮小するのやむなきにいたつた。

そこで、同年十月六日、従来第一工場と第二工場とあり、二基の炉で操業していたのを、第二工場の炉を廃し、第一工場の炉一基のみをのこして、これに全従業員を集中した。そして、それまで、毎月第一日曜日と第三日曜日とを公休日としていたのを、同月七日を休日とした後、翌八日からは、従業員を五組に編成替し、毎日一組ずつ順次休んでゆく交替出勤制としたが、電力事情の悪化で、同月十四日から昼間作業をやめ、もつぱら夜間作業をすることになつたため、ふたたび全員出勤制にかえり、同月二十三日に一せいの休日をおいた。夜間作業は同月末(終業は三十一日早朝五時半頃)までつづき、十一月一日からは、電力事情もよくなつたので、平常の昼間作業にかえつたが、全員出勤制はしばらくそのままつづいた。

その間、従業員に対する賃金の支払日は、毎月二回、第一土曜日と第三土曜日とに定められていたが、上記の炉一基を廃した頃から、経営の悪化にともなつて賃金の支払がおくれるようになり、十一月三日(土曜)の支払も六日にのび、六日にも半分しか支払えなかつたという状態であつた。

以上の事実は、原告会社の目的の点、炉一基を廃した点、および上記期間夜間作業を行つた点について当事者間に争のないほか、成立に争のない乙第一号証の三の一、第二号証の二の四、証人亀井一、亀井三男、西橋勇の各証言および原告代表者本人の供述によつて明らかである。

三、朝日硝子労働組合は、右第二工場の炉を廃したのと前後して結成された。それまで原告会社には労働組合がなく、昭和二十二年二月の創立以来、いわば労働運動の無風帯の中にあつて、労働組合との接触を経験せず、職人気質の支配する従業員によつて事業を行つてきたのであつたが、会社の経営が苦境に逢着した、あたかもその時期に、労働組合が生れたわけである。

組合結成の口火をきり、その中心となつたのは前記西橋勇である。西橋は、昭和二十六年九月下旬頃会社の賃金支払状況が悪くなつたので、一つの組の組長として他の組長等とともに、会社に賃金の支払を確実にするよう要望したことがあり、そのことを会社で西橋の煽動によるものとみているときいてこれを心外とし、労務課長に直接問いただしたが要領を得ず、不愉快な思いをしたが、その機会に、会社が近く炉一基を廃することを知り、かくては従業員が相対的に過剰となり、その結果として、製品の出来高による能率給(賃金は本給と能率給とからなり、その割合は本給三〇パーセント、能率給七〇パーセント位の割合となつていた)が低下するか、解雇が行われるのは必至であつて、賃金支払状況の悪化や右炉一基を廃止した場合におこる事態に処して、従業員の利益をまもるため、従業員の意思を結集した明確な立場で会社と折衝するには、労働組合を結成するほかないと考えたのである。

こうして労働組合の結成を思いたつた西橋は、堀江正一、井上文明、藤本潤一、山田金治等十人ほどの同僚に相談し、その賛成を得て同人等と準備をすすめ、右井上文明の兄井上章が大阪印刷労働組合連合会の組織部長をしているのをたよつて、組合の組織について指導を受け、組合規約を作り、同年十月二日には、総数九十余名の組合加入者を得てほぼその準備を終り、同月十日結成大会を開き、組合長に西橋勇、副組合長に藤本潤一、書記長に森川某、会計部長に井上文明、執行委員に平山幸吉、山田金治、高橋今朝松ほか数名が選任され、書記長は一週間ほどして堀江正一にかわつた。

朝日硝子労働組合は、こうして結成され、組合は関西化学産業労働組合連合会に加入した。

組合は発足するとともに直ちに活動を開始し、会社に対し、不安定な能率給を固定給にあらためること、十月十四日からはじまつた夜間作業に対して二五パーセントの割増賃金を支払うことなどの要求を出し、また、賃金の遅払に対し抗議をつづけたが、これら会社との交渉に、組合長たる西橋が主として当つたのはいうまでもない。

以上の事実は、成立に争のない乙第二号証の二ないし四の各四(いずれも被告委員会の審問速記録)に、西橋勇、川西忠夫、亀井一、藤本潤一、山口佐五郎、高橋今朝松、井上章の各陳述として記載するところと、証人桝野由吉、西橋勇の各証言を総合してこれをみとめることができる。

四、原告会社は、昭和二十六年十一月二日、西橋勇、平山幸吉をふくむ約十名の従業員に解雇を言渡した。西橋は組合長として直ちに関西化学産業労働組合連合会に連絡し、翌三日、同連合会の斡旋のもとに会社と交渉した結果、会社は右の解雇を撤回し、あらためて会社の生産計画を明らかにした上で人員整理について組合と協議することを約し、次回の協議を同月七日と定めた。これらの事実は当事者間に争がない。

右十一月三日は第一土曜日に当り、賃金の支払日であり、翌四日が休日になつていたが、会社はその日に賃金の支払ができなかつたので、支払を同月六日に延期し、これにともなつて四日の休日も七日に繰りかえ、組合もこれを承認した。

同月六日の朝、原告会社の労務課長亀井一から西橋、藤本、堀江等組合幹部に対し、出勤を交替制とし、交替の休日を一週一回の割合とする案を提示して承認をもとめたので、西橋等はこれを組合大会の議に付したところ、従来休日手当として賃金の三〇パーセントないし五〇パーセントが与えられていたのを八〇パーセントに増額するならば右の案を承認する旨の決議が成立し、西橋はこれを亀井課長に通告して回答をもとめたが、同課長は右休日手当の増額を拒否し、同時に、翌七日は休日とせず全員出勤すべきことを要求した。西橋はこれに対する組合の態度を決定すべく、急ぎ組合大会を開きたい旨同課長に諒解をもとめたが、組合大会のため作業を中断することを許されなかつたため、やむなく作業の終了をまち、午後四時半頃、大方の組が作業を終え、藤本潤一、山田金治、高橋今朝松等の属する組のみ、なお作業中であつたので、同人等にはかつたところ作業を終えた組合員のみで大会をやつておいてくれとの意向であつたので、作業中の者を残し、六十余名の組合員が出席して組合大会を開いた。そして亀井課長の回答に対する組合の態度を議した結果、交替出勤の会社案を拒否し、翌七日の休日を確認し、同日は出勤しない旨を決議した。西橋がこの決議を亀井課長に伝えたところ、同課長は翌七日の出勤を重ねて要求し、同時に、賃金は金額支払の都合がつかなかつたので本日は能率給のみしか支払えない旨を告げた。西橋はなお同課長に対し、翌七日を出勤とするについては、会社で相当の割増賃金を出すことを認めれば、さらに組合にはかつて善処したいと交渉したが、同課長はこれに回答しないまま、間もなく全従業員を集めて右能率給のみの支払と、翌七日は全員出勤すべき旨を発表した。西橋はこれに対し、組合の決議として、翌七日の休日は出勤しないと主張したが、組合大会に出席しなかつた副組合長の藤本潤一、執行委員の山田金治が亀井課長に同調したため混乱を生じ、すつきりしない空気のまま、各自賃金を受取つて帰つてしまつた。

こうして翌七日には、西橋勇、堀江正一、井上文明、平山幸吉、平山寅男をふくむ組合員三十数名は、休日として出勤しなかつたが、他の者は会社の意に服して出勤した。

その七日の日は、三日の日の約束に従つて、組合と会社との人員整理に関する協議が行われ、西橋も、関西化学労連の川西忠夫等とともに出席したが、会社は、席上、経理状況の明示として貸借対照表を示し、生産計画については、企業を縮小するというほか、特に具体的に示すところがなかつた。そこで、関西化学労連の方で会社の経理状況につき検討する余裕をうるため、同日の会合はその程度で終つた。

そして会社は、翌八日西橋勇に対し、つずいて九日平山幸吉に対し、外数名の者とともに解雇を言渡し、おくれて同月三十日には、堀江正一、井上文明、平山寅男をも解雇し、同年末頃までに、右をふくめて合計十八名の従業員を解雇し、その間、任意退職した者も三十八名にのぼつたので、合計五十六名の従業員の減少をみることになつた。

組合は、右の解雇によつて活動の中核たる幹部および組合員を失い、まつたくその活動を停止し、有名無実の存在と化した。

以上の事実のうち、前記当事者間に争のない事実のほかは、証人西橋勇、亀井一の証言に、前記乙第二号証の三の四のうち十一月七日が休日であつた点および貸借対照表の点について浜田豊秀、休日必当の点について亀井一、十一月七日の出勤状況について藤本潤一、の各陳述として記載するところ、組合に呈示した生産計画の内容について成立に争のない乙第一号証の二(申立書)および乙第一号証の三の一(答弁書)中これに関する部分、十一月七日の交渉の模様について前記乙第二号証の二の四に川西忠夫の陳述として記載するところ、解雇以後の状況について成立に争のない乙第一号証の五の二(人員増減表)四(依願退職者一覧表)五(解雇者一覧表)、証人高橋今朝松の証言および原告代表者本人の供述を附加総合してこれをみとめることができる。

そのうち、十一月四日なり七日なりが、予定された休日であつたことを原告は争うのであるが、しかし、従来原告会社において第一土曜日と第三土曜日とを賃金支払日と定め、第一日曜日と第三日曜日とが休日となつていたことは、すでに述べた。原告代表者本人の供述により、賃金支払の翌日は従業員がよく休む傾向があつたので、その翌日の日曜日を休日としたこと、また、成立に争のない乙第二号証の五の四に藤本潤一の陳述として記載するところにより賃金支払日と休日とのそのような結びつきのため、従業員には、休日を賃金支払日の翌日という形で意識する傾きが生じていたことが、みとめられるが、とにかく第一日曜日と第三日曜日を休日とすることは事実上守られてきていたのであるから、たとえ就業規則の形で文書に明確に規定されていなかつたとしても、慣行を通じて休日は右の通り特定されていたものとみとめなければならない。つまり、黙つていればその日は休日であつたわけである。前記の通り、昭和二十六年十月八日から一週間ほど交替出勤制を実施したが、その後夜間作業のため全員出勤制にかえり、十一月に入つて昼間作業になつてからも、七日の日まではやはり全員出勤制が続いているのであるから、右交替出勤制の実施を境として従来の休日の定めが廃されたとは解することができない。十月は七日(第一日曜)のつぎに二十三日を休日としたこと前記の通りであるが、第三日曜日の二十一日は賃金支払日たるその前日に賃金の支払ができなかつたため、(前記乙第二号証の三の四に亀井一の陳述として記載するところによつてみとめられる)、二十三日に休日が繰り越されたものとみとめられる。従つて全員出勤制の続いていた以上、十一月四日は第一日曜日に当り、休日として定まつていたものといわねばならない。原告代表者本人は右十一月四日の休日を繰り上げて十月三十一日を休日としたと供述するが、前記の通り、その日は、夜間作業から、昼間作業に切りかわつた日であり、同日の早朝五時半頃までは夜間作業があつたわけであるからその終業時刻と翌十一月一日朝の始業時刻との間に、二十四時間以上の間隔があつたとしても、これを一回の休日といい得ないことは明らかであり、前記乙第二号証の二ないし五の各四を通じて原告会社関係者の各陳述として記載するところと対比しても、原告代表者本人一人の独断というほかはない。そして、十一月四日の休日は、七日に繰り越されたこと前記の通りであるから、十一月七日は休日として定まつていたといわねばならない。この点は、前記乙第二号証の三の四に、原告会社総務部長浜田豊秀の陳述として「七日の日は休日であつたけれども、休日は取消して、その後に休日を繰越すから、明日は休日ではない、休日なみの方法はとるけれども休日ではないからということを会社としては頼んだわけです」と記載されているところに、端的に要約されている。そして、十一月四日従つて七日が、休日として予定された日であつたことについては、上記原告代表者本人の供述のほか、証人亀井三男、桝野由吉の証言および前記乙第二号証の五の四に藤本潤一の陳述として記載するところを除いてとくにこれに反する証拠はなく証人亀井三男、桝野由吉の証言は、前記十月八日以後は交替出勤制になつて一せいの休日はなくなつたという趣旨であり、その後また全員出勤が二十日以上続いた前記の実情にそわず、証人等のひとり合点と解するほかはないし、上記乙第二号証の五の四に記載する藤本潤一の陳述は、記載されている陳述の経過からみて、信用ができない。

五、さて、原告は上記西橋勇、平山幸吉の解雇をもつて、人員整理のための解雇にすぎないとの趣旨の主張をするので、以上に概観した諸事情にそいつつその点を解明しよう。

まず、会社が昭和二十六年十月六日一基の炉を廃したのは、経営の悪化に対処して生産規模の縮小をはかつたものであることはすでに述べた。そうすれば、これにともない相対的に過剰となつた従業員を整理減員する必要が生じ、原告会社がその実現を期するにいたつたことは自然のなりゆきであり、証人亀井一の証言、原告代表者本人の供述によつても疑のないところである。

前出乙第二号証の二の四に浜田豊秀の陳述として記載するところ、および当裁判所における証人亀井三男の証言、原告代表者本人の供述によれば、右人員整理を計画し実施するについて当面の責任者であり、現に直接その衝に当つたのは、労務課長亀井一であるが、その亀井一が当裁判所において証人として証言するところは、昭和二十六年十月初頃、炉一基を廃さねばならなくなつたので、人員整理の必要を生じたが、できるだけ解雇を少くしようということで、なるべく自然退職をまち、(一)勤務年数の浅い者、(二)勤務成績の悪い者、(三)会社に非協力の者を強制退職させるという方針を定め、過剰人員を五十名と見積りこれを整理の目途とし、そのうち強制退職を必要とする者を調査の上十名として、ほぼ十月中に整理を完了したいと考えたが間もなく夜間作業に入り、夜間作業は欠勤者が多いので、十月中は解雇を見送つたというのである。そして一基の炉を廃した頃に解雇基準を定めた点については証人亀井三男の証言および原告代表者本人の供述もこれに一致し、なお、解雇基準の内容の点で(一)勤務年数の浅い者、(二)勤務成績の悪い者の二項目についても一致するのであるが、証人亀井三男の証言では右の(三)「会社に非協力」の項目のかわりに「同僚と折合の悪い者」をあげ、原告代表者本人の供述では「会社に非協力」の項目に当るものを「会社に不利なことを策謀する者」と表現し、また「折合の悪い者」をあげており、なお、前出乙第一号証の三の一は原告が被告委員会に提出した答弁書であるが、それには、本件における主張と同様、右不一致の項目は「同僚と折合悪く、秩序をみだす者」と記載されている。

これを証人亀井一の証言により、会社は人員整理をなるべく自然退職によつて実現したいと考えていたが、十月中の自然退職者を何名と見積つていたわけでもなく、期待したわけでもなく、また勘誘したわけでもないことがみとめられるのと対比して考えると、会社は当時人員整理に対してはつきりした計画をたててのぞんだわけではないとみとめられるし、解雇基準も項目をたてて、しかく明確に定められていたかどうか疑わしい。もつとも、勤務成績の悪い者を解雇することは、当然考えられることであるし、原告代表者本人の供述により、当時、原告会社には臨時工が二十人程おり、また一月に十名内外の従業員の出入があるのを通常としたということ、証人西橋勇の証言により、当時原告会社の従業員中に中学校を終了しない年少の女子が一、二にとどまらなかつたことがみとめられ、これに、成立に争のない乙第一号証の五の三(人員配置明細表)および五(解雇者一覧表)によつてみとめられる従業員の勤務年数および整理状態を参照すると、当時、原告会社が、「勤務年数の浅い者」を整理の対象として考えつく事情があつたとみとめられるので、解雇の場合には「勤務成績の悪い者」「勤務年数の浅い者」を解雇しようという気持をもつていたという程度のことは、みとめることができる。その他の、「会社に非協力の者」等の項目については、それらの文言の意味自体も具体的に明確でないし、どの程度に解雇基準として、予め考慮されていたか疑わしいが、この項目についてはさらに後にくわしく検討する。

六、原告は、西橋勇の解雇理由を「所属の組の中で勤務年数が浅いこと」「同僚との折合も悪いこと」「秩序をみだしたこと」「欠勤を勘誘したりして業務を妨害したこと」「故意に職場を放棄したこと」にあるとし、平山幸吉の解雇理由を「その職場で勤務年数が浅いこと」「平常出勤日に故意に業務妨害の目的で職場を放棄したこと」にあると主張する。

このうち、西橋について「欠勤を勘誘して業務を妨害した」という点は、前記十一月七日の出勤について、井上文明その他に対し、日当を出すから休んでくれと勘誘したという事実を指すこと、前記乙第二号証の三および五の各四に藤本潤一の陳述として、また右乙第二号証の五の四に亀井一の陳述としてそれぞれ記載するところにより明らかであるが、その行為の有無や当否は別として、会社がそういうことを藤本潤一等からきいたのは、井上文明を解雇した同月三十日の後であること、右の証拠によつて明らかであり、西橋を解雇した同月八日には会社はまだそういうことをきいていないわけである。それが西橋の解雇の動機となつたはずがない。右は解雇の後に会社において補足附加した理由づけにすぎないこと明白である。

「勤務年数の浅いこと」という点をみよう。

前記乙第一号証の五の三は、昭和二十六年九月二十七日現在の原告会社の人員配置明細表であるが、それによると、西橋勇は職種は生地巻、勤務年数は二年六月、平山幸吉は職種は調合、勤務年数は一年二月である。

前記乙第一号証の五の五は、原告作成の昭和二十六年十一月以降の解雇者一覧表で、解雇された十八名の職種、姓名、解雇理由が記載されているが、それによると、西橋勇、平山幸吉のほかに、勤務年数の浅いため、という理由を附して解雇されているのは、調合工の山崎勇蔵(上記乙第一号証の五の三によれば勤務年数一月)、運び工の山口トヨ子(同上二月)印頭時子(同上五月)、笠松久子(同上一月)、瓶出し工の山中絹江(同上、五月)、選瓶工の西河利男(同上、二月)の六名である。すなわち、勤務年数五月以下の者ばかりであり、西橋、平山のごとく、一年二月また二年六月という程度に古い者はほかにない。そして、前にもふれたが、証人西橋勇の証言によれば、右六名の中少くとも女子三名は、まだ中学校を終了していない年少者である。

西橋について「所属の組のうち」勤務年数が浅いといい、平山について「その職場で」勤務年数が浅いという点についてはまず「所属の組」についていえば、十月に交替出勤を行つた際にすでに一度組の編成替を行つているし、十一月になつてからは、さらに編成替を計画していたこと証人亀井一、亀井三男の証言によつて明白であり、人員整理した結果は、組の再編成をしなければならないことは当然に予想されるところであるから従来の組の所属などに拘泥することは意味がないし、会社がそういう明らかに無意味な枠の中で整理を考えたとは思えない。また職場についても、前記乙第二号証の四の四に、山口佐五郎高橋今朝松の陳述として記載するところによれば、製瓶の職種は、順次、運び、瓶出し、機械使い、生地巻とあり、運び、瓶出しは、雑役に近く、機械使い、生地巻の二つが職場の中心であつて、経験と技能を要する職種であるが、調合は、右の運び瓶出しと同じく特に技能や経験を要する仕事ではないので、これから考えれば、調合から運び、瓶出しへの配置転換など簡単なことであり、前記乙第一号証の五の三の人員配置明細表によれば、運びや瓶出しの職種には勤務年数の浅い者が多いが、調合の者より勤務年数の長い者もいるのであるから、上記組の編成替と同時に、それら職種間の配置転換も予想されていたと考えるのが自然であつて、人員整理に当つて、それまでの職種をそれほど固定的に考えていたとは思われない、そして、生地巻の中には西橋より勤務年数の浅い者が他に残つているし、運びや瓶出しの中には、平山幸吉よりも勤務年数の浅い者が多く残つていること、前記乙第一号証の五の三によつて明らかである。

右の各点を総合すると、会社が「勤務年数の浅い者」として考えていたのは、組とか職種とかにかかわらず、会社に雇われてから、まだ一、二ケ月ないしは四、五ケ月にしかならないような、ごく新しい者、またとくに、そういう者の中でも満十五歳になつたかならないような年少者を、主として考えていたものであり、組ごとまたは職種ごとに勤務年数の浅い者を間引いてゆくというところまで深く考えていたのではないということが、かなり明瞭に観取できる。従つて勤務年数二年六月の西橋、一年二月の平山を、「勤務年数の浅い者」という理由で解雇したという原告の主張は容易にみとめ難い。

つぎに、西橋について「同僚との折合の悪いこと」があげられているが、組合内部における意見の対立を別にして、西橋にそういうところがあつたとみとめるに足る証拠はなく、かえつて証人桝野由吉の証言によつて、同僚との折合は別に悪くなかつたことがみとめられるし、証人亀井一、亀井三男の証言、原告代表者本人の供述にも西橋の解雇理由として、とくに右の点にふれるところもなく、会社が西橋の解雇について右の点に着目したとは考えられない。組合内部の意見の対立を目して、同僚との折合が悪いとしたというのであれば、それを解雇理由とすることが、そのまま不当労働行為となることはいうをまたない。

そうすると残るのは、「職場を放棄した」点である。もつとも、西橋についてなお、「秩序をみだしたこと」をあげているが、具体的にいかなる行為をさすか、必ずしも明らかでなく、職場放棄とされる行為および、それに関連した前記欠勤の勘誘とか、同僚との折合の点を、別の面から表現したにすぎず、別異の事実を指すのではないと解されるので、とくに事実の有無について判断する由がない。

「職場を放棄した」というのが、前記十一月七日の日に出勤しなかつたことを指すことは、前記乙第一号証の五の解雇者一覧表に解雇理由として明記されているところでもあり、弁論の全趣旨からも疑がない。そして、そのことが、西橋、平山の解雇を十一月の八日および九日に言渡すきつかけとなつたことも前認定の経過からみて疑がない。しかし十一月七日が休日として定められていたこと、組合が会社に対する休日手当の交渉の過程で、組合の要求を拒否されたことに対する対抗策として会社の休日出勤の要請を拒否し、右七日の休日を確認し、同日出勤しないことを決議し、西橋、平山等がこれに従つて同日出勤しなかつたものであることは、前に認定したところで明らかである。従つて、七日の日に出勤しなかつたことが、組合活動の一端として行われたことは明白であり、そして、単に会社が出勤を要求したというだけで、休日に休むことが労働契約の違反になるわけでもなく、また業務の正常な運営を阻害するものということはできないから、争議行為にさえならないわけで、これを違法とする根拠はない。原告は、会社が倒産寸前にある時、右の行為に出たことを強く非難し、当時石炭の手持が乏しく入手の当もなく、休日に空だきするにしのびなかつたことをあげて、西橋、平山等の行為の不当を強調するのであるが、そのような事情が、直ちに休日出勤を義務づける根拠となることは考えられない。そして、成立に争のない乙第一号証の六の一(上申書)の記述、前出乙第二号証の二の四に浜田豊秀の陳述として記載するところと本件における原告の主張を通じて、原告会社が、西橋、平山の右の行為を解雇理由としてとらえるに当つて、「職場放棄を卒先」し、「多数従業員の勤務意慾を阻害」したという、その組合活動なかんずく組合指導の面に重点をおいて評価していることが明白にみとめられる。

この点を解雇理由とすることは、西橋、平山等が組合の正当な行為をしたことの故をもつて、同人等を解雇するに帰し、労働組合法第七条第一号に違反することが明らかである。

なお、原告は、西橋が、昭和二十五年十月六日および昭和二十六年十月二十一日、気がすすまぬとて職場を放棄し、平山が昭和二十六年十月二十七日同僚の大谷某の顏面をなぐり、また常に遅刻したという事実をあげるが、それが同人等の解雇理由となつたという積極的な主張もないし、被告委員会の審査の過程で提出された前出乙第一号証の二の一の答弁書、乙第一号証の六の一の上申書を通じ、また本件訴状においても、別に右の事実にふれておらず、その後本件において提出された準備書面に、ぽつんと事実だけが、解雇理由というのでもなしにあらわれただけであり、証人亀井一も右のような事実のあつたことは証言するが、それが解雇の理由となつたとまではいわない。ただ、前記乙第二号証の三の四に、亀井一の陳述として記載するところの中に解雇理由に関して右の事実にふれ、また証人亀井三男の証言中に「勤務成績の悪い者」とは、出勤状態の悪い者のことで、西橋が最も悪かつたという証言があるが、原告の本件における主張では、西橋の解雇理由に「勤務成績の悪い」点は、あげていない。右のような本件訴訟の内外に通ずる原告の主張のあとから考えて、右のような点が、西橋、平山の解雇理由となつたものとは考えられない。

七、以上、原告の主張に即して解雇理由を検討し、十一月七日のいわゆる職場放棄の点を除き、原告のあげるところはすべて、解雇の真の理由となつたものとみとめ難いこと、そして、右職場放棄の点を解雇理由とすることは、労働組合法第七条第一号に違反することを、明らかにすることができた。

ところで、原告会社は、前述の通り、十一月八日および九日の解雇に先だち、同月二日にも一旦解雇の言渡をしており、七日のいわゆる職場放棄がある前からすでに、西橋、平山に対する解雇の意思を決定し、表示しているのである。右職場放棄がその意思を急激に強化し、解雇に拍車をかけたことは、疑ないとしても、これと別に、右二回の解雇を通じ、解雇の意思を形成するに決定的な要因となつたものは、一貫して他に存したといわねばならない。そしてそれは、右職場放棄と関係のない、二日の日に行われた解雇のうちに、静かに存しているわけである。

それでは、二日の日に言渡された時の解雇の理由は何であつたか。

すでに認定した通り、会社が経営の危機に直面して、立直りを焦つていたさい中に、新たに組合が結成されたのであつて、会社としては、まことに都合の悪い時期に組合ができたといわねばならないし、その組合が、団結の圧力をもつて、賃金の遅払に抗議し、交替出勤にすれば賃金の固定を要求し、夜間作業をすれば割増賃金を要求するなど、これまで労働組合を経験しなかつた会社にとつては、まことにやりにくく、わずらわしかつたにちがいない。そして日を経、事を重ねるにつれ、いよいよその感を強くしていつたことが目に見えるようである。こんなときに、わざわざ組合をつくつて会社にたてつくことは、苦境の打開に専心する会社に対し、非協力な態度であり、会社に不利益なことを策動するものであり、秩序をみだすものだという気持をいだいていたことは、原告代表者本人が、西橋について炉を一基にした後(すなわち、組合結成の頃から後)不協力な態度が目立つたと供述し、また、賃金の遅払に抗議を申入れた際、賃金を支払わなければ仕事を休むといつたが、そういうことが会社に不利なことに当ると供述しているところ、その他前記乙第二号証の三の四に藤本潤一の陳述として、「組合員、従業員以外に、組合の行き方はどうも西橋一人で引張つているようだ、どうも西橋の行き方は面白くないというような話を再三聞きました」との記載があるのを参照して、容易に推測できる。そうすると、前に述べた、「会社に非協力な者」「会社に不利な策動をする者」「秩序をみだす者」という項目を解雇基準として定めたというのも、打ちわつてみれば、右のような気持から、現実には組合活動を目標にしたということで、それを、より無内容な抽象的文言で包んでいるにすぎないと推測して大過ないと考える。

西橋勇がその組合の組合長であり、中心となつて組合を結成し、推進したものであることはすでにみた通りであり、平山幸吉は執行委員であり、会社との交渉の場にのぞむことこそ多くなかつたが、組合活動において強硬であり、社長などにも遠慮のない発言をして注目されたことが、前記乙第二号証の三および四の各四に、藤本潤一、高橋今朝松の陳述として記載するところと証人西橋勇の証言を総合してみとめられ、前記乙第二号証の五の四に、この点に関し、右と趣を異にする井上文明の陳述が記載されているのは、上記の証拠と対比して同人の誤解によるものと考えられる。

そうして、十一月八日および九日の解雇について、原告が解雇理由としてあげているところが、職場放棄の点をのぞき、すべて真の解雇理由とみとめ難いことは前に説明した通りであり、そのことは、二日の解雇についても同様にいえるものと考える。

このようにみてくると、西橋、平山に対する二日の日の解雇は、同人等が組合を結成し、組合長や執行委員となり、組合の中心また強硬分子として活動した点をきらい、これを理由に解雇の意思を決定したものとみとめるほかはない。

そうすれば十一月八日および九日における解雇について、その意思は、すでに前から右のように決定されていたものである。前記職場放棄という事情が加わつたことも、右の点で解雇の意思決定を異質なものとしたのではない。会社は、前記の職場放棄を、従来の組合活動の頂点、その集約としてとらえているのであり、組合活動をきらつての解雇という点では変更はない。より、むき出しになつただけである。このことは、前に解雇理由としての職場放棄について解明したところからいつても明らかである。

西橋、平山に対する解雇は、同人等の組合における地位ないし組合の正当な行為をした故をもつてなされたものといわねばならない。

八、かくして、会社は、組合の主柱たる組合長西橋勇と、これにそなえて執行委員平山幸吉を解雇した後、同月三十日、さらに、書記長堀江正一、会計部長井上文明のほか、組合員で平山幸吉の弟平山寅男を解雇したことはすでに認定した。すべて、前記十一月七日に組合の決議に従つて出勤しなかつた者であり、会社がこれを職場放棄とし、右三名をその首謀者として解雇したものであることは、前出乙第一号証の五の五(解雇者一覧表)に同人等の解雇理由として職場放棄と記載しているところと、前記乙第二号証の三の四に藤本潤一の陳述として記載するところによつて明らかであり、また平山寅男は組合の役員ではないが、組合の中で最も活溌な層である青年部の役員をし、相当目立つ活動をしていたことが、前記乙第二号証の三および四の各四に藤本潤一、山口佐五郎の陳述として記載するところによつてみとめられ、組合の役員中、前記乙第二号証の三ないし五の各四に藤本潤一、山田金治、高橋今朝松の陳述として記載するところを通じ会社側にきわめて同調的とみとめられる副組合長の藤本潤一、執行委員の山田金治、高橋今朝松をのぞき、目ぼしい役員、活動分子は、ほとんどこれによつて一掃され、さればこそその後、組合はまつたく活動を停止し、有名無実の存在と化したことは前に認定した通りである。

そして、これを西橋等について上来認定してきた諸事情にてらして考え、右堀江正一、井上文明、平山寅男の解雇も、西橋等と同様右三名の組合活動を理由としたものであり、また、右五名の解雇は、人員整理を機会に、組合の活動分子を排除し、組合を弱体化しようとする意図のもとに行われたものとみとめられる。

九、そうすると、西橋勇、平山幸吉の解雇が、労働組合法第七条第一号に違反し、また、右五名の解雇が同条第三号に違反することは明白であり、これと同一の判断にもとづく被告委員会の命令は、その点において適法である。そして、その他の点については、原告も明らかに争わないので、被告委員会の上記命令は、すべて適法になされたものとみとめる。

よつて、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法第八十九条を適用し主文の通り判決する。

(裁判官 山下朝一 鈴木敏夫 萩原寿雄)

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